2045 Carnival Folklore

予告編を見ると、役者っぽい人がセリフっぽい言葉をしゃべっているから、なんらかのストーリーに依拠してシーンが展開していきそうな、要するにとにかく「映画」であることは間違いないだろうと、そういう感じがする。だけど、実際本編を見てみると、映画というよりは名づけようのない現象といった具合で、それが良かった。映画館で観るのがもったいないと思った。反面、どういうところでこの作品を観るのがいいんだろうとも。

近未来SFと銘打っているそうだが、明らかにロケ地が現代の横浜だし、登場人物も登場人物であることを放棄する瞬間があって、明確なフィクションというよりも、現実に対するひとつのフィルターとかレイヤーのような、ちょっとしたドキュメンタリーのような印象の方が強く残っている。もちろん、原発事故や偏向報道みたいな現実の出来事が背景にあるから当然なんだろうけど。

愛の渦

「愛の渦」を観た。音楽とか効果音の恣意性が強いというか、観る人の感情をある方向に持って行こうとする力が強すぎるように感じられて、正直うるさかった。とはいえ、こうした部分は脚本で表現することが難しい部分でもあるので、今回の映像化にあたって監督であり原作者でもある三浦大輔さんが重視したポイントなんだと思う。意図はわからないけど。というか、舞台版も見ていないんだけど…。ともあれ、門脇麦、いい感じでした。

幅の広さ

ある作品が、ほんとうは作品じゃなくてもいいんだけど、ここでは仮にある作品が、多様な解釈に開かれているなどと、非常にポジティブなこととして語られたりする。で、たまにそれって開かれて無くないか?と思うことがある。ダメな例の反証を挙げていくと面倒なので、端的に書いておきたい。

まず前提として、

  • 自分自身は自分自身の「解釈」にしか触れることができない
  • つまり、他者の「解釈」に本質的に触れることができない

ということがある。そのうえで、

  • ある作品をめぐる「解釈」が絶対的に単一であるとしか信じられない
  • にも関わらず、たとえば他者とそのある作品について語り合ったりした時に、そのことがあっさりと覆される
  • それもあらゆる他者と語り合った時に

という場合、多様な解釈に開かれていると言える気がする。つまり、作品を観たりした時に「こう考える人もいるだろうね」「ああ考える人もいるだろうね」ということを思ったとしても、開かれていないのではないか。自分が平行世界のことを知るよしもないように、絶対的な揺るがなさが、不可知的にパラレルに広がっていかないと多様な解釈に開かれているとはいえない気がする。

インターネットヤミ市2

インターネットヤミ市2」に参加した。今回は「記憶」を売った。この「記憶」は現品限りで、売ると無くなる(忘れる)というものだ。糸電話を駆使して、記憶を売りさばき、トータルで20個くらいは売れたのだろうか。この他にも、他人の不要な記憶も買い取った。買い取ることの出来た記憶はひとつだけで、ある人から「ヤミ市に来た理由」を買い取った。

https://twitter.com/datsuo/status/351310907743289344

もうちょっと洗練できそうな気がする。

ホーリー・モーターズ

自分は小説を書いたことがなかったし、だから小説家ではないし、そもそも小説家を書こうと思ったことが無かった。だから、昨年の「京急蒲田処女小説文藝大賞」にあたって、小説の執筆を依頼されたとき、小説を書くこと自体を題材とした小説を書いた。なぜなら、自分の内側から沸き上がる「書くべき主題」、というか一定以上の解像度を以って描くことができる主題が、技術的な問題から限定されていたからだ。技術的というと、文章の巧拙みたいだけれども、「世界観」というか、世界を観るポイントを設定する感じに近い。要するに、技術が無い場合、メタ的な構造にアクセスしてしまえば、作品として成立させやすいということなんだけど、それは同時に競争も激しいということでもあって、まぁいいか。

それで、レオス・カラックスの「ホーリー・モーターズ」を観た。映画をつくること、上映された映画を観ること、それ自体についてのあまりにも真っ向から挑んだ映画だった。ほとんど奇跡のような映画としか思えなくて、映画ということで言えばアピチャッポンの「ブンミおじさんの森」以来の衝撃。

極限芸術

鞆の浦にある鞆の津ミュージアムで開催中の「極限芸術〜死刑囚の表現〜」という展覧会に行ってきた。この展覧会は、死刑囚が獄中で手がけた絵画や書などをあつめたもので、開館1周年を記念して企画されたという。詳しい情報はミュージアムのウェブサイトであるとか、あと、非常に反響を呼んでいる展覧会なので、ニュースサイトやブログなどを参照して欲しい。

まず思ったのは、作者が死に直面しているという事実がどうしても、観る側に特殊な感情を喚起させるという点。たとえば、なにかの病気であれば、もしかしたら治る可能性があるかもしれない。だけれども、この死刑囚という存在は、制度的に死が宿命づけられている。特殊な事実が作品を特殊なコンテキストにしばりつけている感は否めない。

そういう意味で、一番グッと来たのは、刑務所の食事に出てくる味噌汁の具をチャート式に100日分まとめた絵、というかダイアグラムだった。A4ほどの用紙に、100日分の味噌汁の具が記入できるよう、定規でマスが作られており、そこに大根や白菜といった具が色鉛筆でアイコンでびっちりと記入されていく。この人はいったい何故そんなことをしているのだろう。刑務所という非日常的な空間の、とてつもなく平坦な時間をなんとか埋めていくために、毎食出される味噌汁の具に巨視的なリズムを見出すことにしたのだろうか。詳しい理由はよく分からないけれども、100日分の味噌汁の具が描きこまれたそのダイアグラムには、いつ死を突きつけられるか分からない彼らの、100日単位の生の確認作業のように思えたと同時に、そういう確認作業が必要なほど希薄な生の実感(事実上社会的には抹殺されているに近いので当たり前かもしれない)が提示されていたように感じた。

ワンダフルつづき

もうさすがに、ワンダフルについて書くことはないだろうなーと思っていたら、このタイミングでこんな記事が。

監督の古屋さんと環ROYさんの対談なのですが、その中に、

環ROY:ホームパーティーみたいなやつ、切り口のセンスが好き。感じるものがあったよ。

古屋:あれは、思い出横丁情報科学芸術アカデミーさん。

というやり取りが。なんだかんだ言って、他人のため(この場合は環ROYさん)につくったものでもあるので、こういう反応は素朴に嬉しかったりするものです。嬉しいと言うよりも、伝わって良かった〜っていう安堵感に近いかもしれない。

そんな報告でした。