月別アーカイブ: 2010年11月

新しいブログ

CBCNETさんのウェブサイト上で思い出横丁情報科学芸術アカデミー名義でブログをはじめさせていただくことになりました。

最初のエントリ「思い出横丁からこんにちは」にもある通り、放送部の内容のまとめや、連載執筆や作品制作のプロセスなどを紹介できたらと思っています。ですので、このブログからは思い出横丁情報科学芸術アカデミーに関する内容は減っていく見込みです。ともあれ、こちらのブログも、CBCNETのブログも、併せてよろしくお願いいたします。

11月19日の思い出横丁情報科学芸術アカデミー

というわけで、毎度おなじみの思い出横丁情報科学芸術アカデミー放送部をおこないました。

今回は初心に立ち返って屋外からの放送にトライしました。それにしても、なぜ屋外からの放送に適しているであろう夏におこなわずに、寒い冬におこなってしまうのでしょうか。人間の習性とは不思議なものです。今回の放送場所は千代田区内の某公園です。ここはあまりに著名人の往来が激しくて、「たけし・さんまの有名人の集まる店」の様相を呈していました。放送内容よりも場の持つ力が全面に出てしまった感があり、その点は反省しています。また屋外で放送をする機会があれば、もっとなんでもない場所でおこないたいと思います。

前のエントリの説明

前のエントリーに書かれているテキストは、11月21日までアキバタマビ21で開催されていた「オカルトテクニクス」展に寄せたものです。個々の作家の作品はいろいろと見ていましたが、展覧会に寄せるテキストを書くためのとっかかりがそれ以外にあまり無かったので、「オカルトテクニクス」ということばから思いついたことを書きました。

まず、まっさきに思い浮かんだのは「オカルト」の語源であるラテン語の「occulta」の意味、すなわち「隠されたもの」でした。「隠されたもの」は、隠されている限りにおいてその存在を知る術はないはずです。ではなぜ、「隠されたもの」が隠されていることに気づいたのでしょうか。これに答えるヒントとして、明らかであることに対して眼差しを向けることが重要であるように思いました。

つぎに、具体的なイメージとしてヨーゼフ・ボイスの「カプリ・バッテリー(1985)」が思い浮かびました。この作品は思い出横丁情報科学芸術アカデミーの連載でも触れていますが、ただのレモンとただのソケットのついた電球です。いずれもそのしくみ(とすら呼べないものですが)は明らかですが、それらを接続したとき、光を感じます(あくまで心象としてです)。

このような事柄を思い浮かべながらかいたのが例のテキストです。

むかし、学生時代にwebAGORAというウェブマガジンを運営していた頃、そのメンタルアドバイザーだった久保田さんに、「原稿は締切りの1週間前に書く。そして、1週間そのままにする。締切り直前にそれを読み返す。書きなおす」というアドバイスをいただいたことがあります。しかし、凡人の私は、このアドバイスを締切り当日に思い出すような有様だったので、全く活かせませんでした。

なので、もうひとつのアドバイス「人はまったく自分の心に響かないレコードのレコ評を10枚分書けと言われても、意外となんとかなる。だから書けないということはない」を思い出しながら、リラックスした気分で書きました。

私たちの前から隠されたものについて

人間の肉眼の能力は分解能という指標で測ることができます。肉眼の平均的な分解能は100分の1mm。このサイズ以下のものは、そこに存在していたとしても見ることができません。しかし、光学顕微鏡を使えば、この数値は1万分の1mm、さらに最新鋭の電子顕微鏡を使えば、ほぼ原子レベルとなる1000万分の1mmまで小さくなります。

テクノロジーの進歩とともに、どんどん向上する分解能。ただ、その値がゼロ、つまり分解能が無限大の状態にならないかぎりは、そのサイズ以下のものは観察できないことを忘れてはなりません。私たちの目の前からは、つねに何かが隠されつづけているのです。

人間が生み出したテクノロジーには、それぞれ固有の体系や構造や秩序などが存在しています。これを理解できるようになると、人はテクノロジーを難なく扱えるようになります。この過程で体得できた身体や精神こそが、「テクニック」です。しかし、分解能の値以下のサイズのものを見ることができないのと同じように、どれだけテクノロジーへの理解を深めたとしても、テクニックへと昇華しきれなかった「何か」が、テクノロジーの側に絶えず隠されているような気がしてなりません。そして、分解能の限界を超えたところに隠されているであろう極小の素粒子が、万物のはじまりの秘密を握っているのと同じように、テクニックへと昇華しきれなかったかすかな「何か」が、テクノロジーの本質をつくように思うのです。

メディアアートも芸術である以上、使用するテクノロジーそのものよりも、それをどのように扱い、何をするかということが問われます。もし、それに加えて、作者の意図の斜め上を行くような現象が作品内部に引き起こされ、テクノロジーの本質をつく「何か」を召喚できたとしたら……そうしたことが「オカルトテクニクス」だと思うのです。結果、それが災厄となって死人を出すのか、芸術の範疇に収まって傑作と称されるのかは、全く予期できませんが、いずれにせよそうした作品をつくれるのは、極限までテクノロジーへと近づいた人間のみのはずです。

東京芸大でレクチャー

きたる12月3日(金)に、東京藝術大学芸術情報センターというところで、思い出横丁情報科学芸術アカデミーのレクチャーがおこなわれます。

このレクチャーは芸術情報センターが開講する「芸術情報特論」という授業の枠でおこなわれるのですが、この授業は毎週多彩なゲストを招いていまして、たとえば今年度は四方幸子先生に始まり、池上高志先生、アンカーズラボ先生、畠中実先生、比嘉了先生、平川紀道先生、スプツニ子先生、エキソニモ先生など、そうそうたる顔ぶれ並んでいます。
このラインナップの中で我々は明らかに場違いな感が漂っていますが、とにかく自分たちの考える「芸術」と「情報」について熱く語りたいと思います。

なお、レクチャーの内容については、開催の1週間くらい前を目処に同センターのウェブサイトで公開されるようです。芸大生以外も、そのウェブサイトから申し込めば聴講できるようですので、ぜひご参加ください。これについてはまた改めてお知らせしたいと思います。