月別アーカイブ: 2012年3月

飲み会

異動で去っていく同僚や、転職する同僚たちの合同お別れ会。

マーハーさんがNINJINでの2次会から大暴れして、世界のたかちゃんがキレ始めたので、タクシーに詰め込んで彼の自宅へと強制送還した。

向津具

長門という小さな港街にある向津具(むかつく)というイカした名前の地域に別荘を建てた同僚がいる。その同僚はもともと麿赤兒が主宰する大駱駝艦に所属して、いまでも現役の舞踏家だ。きょうはその別荘に麿赤兒を始めとした大駱駝艦の一行が来訪し、公演もするということなので、ほかの同僚たちと見に行った。

山口から向津具まではだいたい1時間半くらい。初めて訪れた向津具は同じ日本海に面した母の実家がある萩の大井と似たような雰囲気があった。その町外れに同僚の別荘はあった。こつこつと積み立てたお金で、工務店を使わず自力で設計し、建てたという話を聞いていたので、ブリコラージュ的な素人仕事なのだろうとぼんやりと思っていたが 、実際のそれは見事で立派な別荘だった。その別荘に山口ドリーム(アメリカンドリーム的な意味で)を見た。

別荘の裏はすぐ向津具湾へと続いており、海に入るすぐ手前に舞台が設えられていた。大駱駝艦の人たちと同僚がきょうのために3日かけてつくったらしい。

そしていよいよ公演。現場の様子は同じく同僚が撮影してくれたので、それを見て欲しい。

金粉ショーから、同僚の弟子のソロ、そして同僚と麿赤兒とのコラボレーションという流れ。日本固有の土着的な文化や風習をベースにした舞踏が、人工的な劇場空間ではない、自然に囲まれた野外で行われることで、祝祭性が前面に押し出されていて、端的に言うと多幸感溢れる公演になっていた。

公演のあとは、大駱駝艦のみなさんと別荘で飲み会。麿赤兒はかなり怖い感じの人だったけど、昔、うちの実家(江古田)の本当に近所に大駱駝艦の稽古場兼事務所があったことが発覚。思えば変わった感じのビルがあったがまさか、大駱駝艦だったとは。またこのイベントやってほしい。

スペイン人

スペインに行ってしまう同僚のフェアウェルパーティー。

なんで日本に生まれてこんなラテンな暮らしぶりができるのか、まったくの謎。山口に来る前はスペインで働いていたので、ある意味故郷に帰るとも言えるか。身近にこういう自分がなれなさそうな人がいなくなっちゃうのは本当に残念。

最終日

その調子で、東京へ。

「インターネット アート これから」の最終日の様子をチェック。最終日だけあって大盛況。ネットごし気配感みたいなものを召喚しようとした展覧会だったので、人がいっぱいはいると、その気配感と人間とが作用し拮抗し合い、不思議な雰囲気が醸し出されているように感じた。

そのあとはライブハウスでロックバンドのライブを鑑賞。

福岡

エキソニモが借りたという博多のスペースをなんとなく下見。微妙に遠いんだけど(バスで3時間くらい?)、なんとなく来れるくらいの距離でいい。なんとなく来たついでに、出世払いで夕飯をごちそうになり、泊めてもらってしまった。

野焼き

秋吉台で毎年恒例となっている野焼きに行った。

野焼きというのは、秋吉台の広大なカルスト台地に火を放ち、そこに生えた草を焼き払うという文字通りの行事である。おそらくこの作業をしないと、茫漠さが魅力のカルスト台地がやがてうっそうとした森になってしまうのだと思う。観るだけでもなかなか壮観なのだが、毎年所定の時間に現場に集合すれば、参加する、つまり火を放つ側に回ることも可能である。通常であれば犯罪になるような行為がこの日だけは合法になるということで根強いファンも多い。

今年は同僚たちと参加しようと、朝早くから起きて待っていたものの、運転手を担当した同僚が寝坊したため間に合わず、やむなく観る側に回ることになってしまった。

合図とともに、ほうぼうで火が放たれる。業火を背に悠然と歩くスタッフはまるでランボーのようだ。みるみるうちに焼き払われていくカルスト台地の草。ものの1時間くらいで、褐色の大地が暗黒に染まり、野焼きは終了した。

その後、我々は秋吉台から山口市内の職場へ帰った。ふと、職場の目の前の公園の芝生に目をやると、野焼きによって焼かれた草の真っ黒な燃えかすがぽつりぽつりと辺りに落ちていることに気づいた。秋吉台からの距離はおよそ20kmくらいだろうか。これくらい離れていても、燃えかすが飛んでくるのであれば、放射能とかいくらでも飛んできていてもおかしくないなと正直思った。

あとから分かったことだけど、ほかの同僚もみんな同じことを考えていたらしい。

1年

その日の午後、職場にある上等なラジオで、ラジオ番組を聴いていた。普段は仕事中にラジオを聞かないので、どういった理由でそうなったかは忘れてしまったけれども、聴いていたラジオ局はNHKだったらしい。らしいというのは、その後に起こることからスタジオが東京にあることが分かったからだ。

しばらくすると、ラジオの向こうからガタガタと音が聞こえた。と同時に、ラジオのパーソナリティがそれまでの陽気な感じと打って変わって、激しく狼狽し始めた。そして、ラジオの向こうの我々に向かって強い警告を発しはじめた。とても大きな地震だと。自分はラップトップにechofonをインストールして、常駐させているので、すぐにTwitterのTLを見ることができる。TLを見てみると、300人くらいしかフォローしていないのに、濁流のように投稿が流れていた。しばらくすると、ラジオの向こうから震度を伝えるパーソナリティの声が聞こえた。それによると、震源地に近い宮城の震度は6強で、東京は5強ということだった。

その数日前に宮城で地震があったことや、2008年の宮城内陸地震のことなどを思い出したりして、地震自体は大したことがないのではないかと率直に思った。また、東京生まれ、東京育ちの自分にとっては地震(や台風などの災害)というのは、ある種のエンターテイメントだと心のどこかで思っていたので、震度5強の揺れを体験できなかったのは、むしろ残念なことだと感じた。なにせその時点での自分は、生まれてからの時間の98%を東京で過ごしていたのだから。

その後明らかになる全体像のことを考えると、随分と楽観的だった。しかし、それでも東京で震度5強というのは生まれてこの方聞いたことが無かったし、ある種の不安の高まりとシンクロするように、ラジオもいつの間にか報道に切り替わっていた。テレビも報道に切り替わっていた。

ただ、テレビを見ていても、自分が小学生の頃に起きた阪神大震災のときと同じように、最初はテレビ局の内部の様子くらいしか分からない。しかたがないので、最初の30分くらいはぼんやりとテレビを見たり、Twitterでフォロワーがザワついているのを眺めていた。そういえば、地震が起きて震度が発表されてすぐTwitterに「6強」と投稿したんだけど、そのあとすぐ消した。そこには自分の居場所がないように思えたからだ。もう、みんながどうやって帰宅するか、とかそのための情報交換のための道具へとTwitterはなっていた。自分にとって、Twitterは便利な道具ではない。

東日本から遠く離れた山口では危機感みたいなものはどうしても希薄になる。地震から30分ほど経った頃に、茨城の空港だっただろうか、そこの映像がテレビに映し出された。空港職員が手荷物検査用のトレイを頭にかざし、不安げな面持ちで天井から建材がボロボロと崩れ落ちるのを眺めていた。その映像を見て、同僚がゲラゲラ笑っていた。同僚の不軽率を糾弾するとか、そういうことじゃなくて、その時の感じはまだそんなものだった。津波の警報とかが出ていたけど、第一報の数字としては数十センチメートルとかそんなものだったし。

たしか16時くらいになると、名取から津波を空撮で捉えた映像が中継されてきた。

この映像を見たときの率直な感想は「津波遅っ」だった。他の同僚も口々に同じようなことを言っていた。建物を巻き込みながらぬるぬると陸へ陸へと進んでいく津波。その建物に人が居るかもしれないなんてリアリティは持ち合わせていなかった。というか、あれだけ家があったら多少は人が居るかもしれないなぁ、という人の生き死にをパーセンテージで捉えるような感じだったような気もする。津波の行く先には逃げようとするトラックがいて、みんなで「そこ曲がれ!早く早く!」とか言っていた。

でも、画面の向こうのトラックとかが津波に飲み込まれそうになると、ヘリコプターからのカメラが、うまいことパンニングしてトラックから画面を逸らしているのが映し出されて、そら恐ろしい気分になった。いま、上の動画を見ても、あまりそういうシーンが無いような気がするが、なんとなく感触として、ずっと残っている。

それからはどうやって過ごしただろうか。ちょうど当時のメールを読み返してみると、その後も割と淡々と仕事をしていたことが分かる。一方で、地元の中学生だかが、NHKの映像をUSTREAMで再配信していたので、その映像を(テレビがあるのに)仕事の片手間に同僚たちと見ていたりした記憶もある。ちょっと夕方以降の記憶が曖昧だ。

しかし22時くらいだったか。

この映像が入ってきて、一気に虚脱感というか「あーあ」という気分になり、すぐに帰った。心のどこかに、人が何千人も死ぬような災害が自分が生きているうちに起きることはないという考えがあった。阪神大震災とか同時多発テロというのは特別なことで、あれから10年以上が経過した今は、テクノロジーが発達して、そんなに人が死ぬような大災害は起こることはないと考えていた。だけれども、映像には苛烈な現実が映しだされていて、そういう考えは打ち砕かれた。

家に帰ってからは久しぶりにセカンドライフを起動して、いろんな土地土地を回った。Twitterは1週間くらい投稿しなかった。

秋吉台

秋吉台国際芸術村に津田さんの作品を観に行く(作品とても面白かった)。

行く途中に山から湯けむりのようなものが立ち上っていて、ああ、どうしたんだろうと思ったら、その日の夜から目が痒く、鼻水が出るようになってしまった。あの「湯けむり」は花粉だったのだ。そんな今日は花粉症記念日。

やぐら

江古田にあるやぐらが閉店してしまったらしい。やぐらは江古田の民にとって精神的支柱だったので、なんというか言葉もない。ここ数年、西武池袋線の高架化にともなう区画整理のため、自分が生まれるよりも前からあった建物がどんどん消えつつある。ここは自分の生まれ故郷ではないのではないかと江古田に帰るたびに動揺してしまうが、これも市街地に生まれた者の宿命かもしれない。

いちおう、知らない人向けに簡単に説明しておくと、やぐらは江古田駅にほど近い場所にあるおにぎり屋さんである。21世紀の東京にあるおにぎり屋さんというと、どうしても外苑前のOnyのようなオシャレでロハスなものを想像してしまうが、そういう人はもうちょっと思考を三ノ輪寄りにして欲しい。

この江古田コンパ(23区内では最後のコンパらしい)の右隣にあるのが閉店してしまったやぐらである。ここでおにぎりが日々販売されていた。

またやぐらを語る上で、非常に重要なのがその特異な営業形態である。Onyなどはオシャレでロハスといっても常識的なので、朝には開店して、夜には閉店する。しかし、やぐらには開店とか、閉店とか、そういう概念がそもそもない。つまり、24時間365日開店しているのだ。とはいっても、コンビニのように若いお兄ちゃんやお姉ちゃんが取っ替え引っ替えローテーションしていくわけでもなく、老夫婦が2人だけで営業していた。

その老夫婦の穏やかで丁寧な働きぶりと、24時間365日おにぎりを握っている狂った状態とのギャップが、江古田の民を戸惑わせた。その戸惑いは、人の温もりを持ったコンピューターだとか、鎮守の森のように静謐な高層ビルといった、一見矛盾をきたしているように見える存在に出くわしたときの感情に近い。この先、自分はこいつと一緒にやっていけるんだろうか、そういう感情である。しかし、それは杞憂におわる。だって、24時間365日やってるけど、温もりがあるんですもの。往時のやぐらはデイリーポータルZのこの記事も参照して欲しい。

江古田には夜12時で閉まるコンビニ(ファミリーマート)がある一方で、やぐらのような店もある。そういう無闇にアンバランスな感じが、実家を離れて10年経つと、自分に非常に大きな影響を与えていたことがわかってくる。いま、その一角が崩れたわけだが、この経験はできるだけ忘れないでおこうと思っている。